レポート:4月18日開催の公開講座「北村薫トークショウー春のなごり雪ー」について
昨日開講されました八洲学園大学公開講座「北村薫トークショウ-春のなごり雪-」について、聴講メモをもとにざっくりレポート?します。
八洲学園大が入っているビル。国道沿いの角地で、すぐそばを走るJRや高速の高架の向こうはみなとみらい地区です。
賃料高そうだなあw
1階?で幼稚園も運営しているらしいですが、これを並べられると・・・なんか・・・
日時:2010年4月18日(日)14:30~16:15くらい。終了後15分程度サイン会あり。
場所:八洲学園大学横浜校舎3階
聞き手:中田雅敏氏(八洲学園大学教授)
募集定員300名のところ、申込みは100人超とのことでしたが、当日会場にはそこまではいなさそうな感じでした。
大きめの教室で、奥に舞台があり、中央左手に中田先生が、右手に北村先生が座られました。
【以下、敬称略】
中田:今日のトークショウには「春のなごり雪」というタイトルをつけていた訳ですが、
昨日は首都圏に46年ぶりという遅い雪が降り、まさにタイトルぴったりになりました。
昨年は直木賞受賞おめでとうございました。これからはたくさん賞を積み重ねていかれるかと。
本学でこのようにお願いをしましたのは、北村先生は大変お忙しい中ですが、一・二週間前にも新宿・・・池袋のジュンク堂でトークショウをなさっておられたとか。
そのあたりの中からまたお話を伺えるかと。
北村:はい。池袋ジュンクでちょっとお話しをしまして、その時に今日配ったものと同じプリント【注1】を用意しました。
そうすると今日も同じ話をするのか、というと全く同じではありません。
発展したモノもあります。
話そうとしてはなせなかったこともある。
内容についてその後の話も出てきたりしてその話もありますし、また、話というのはナマモノですので、
その場のやりとりというものもある訳なんですね。
『自分だけの一冊』は新宿の朝日カルチャーで話した時のほぼそのままを本にしたんですが、
原則として、話すこと(講演)は引き受けないんです。
ふと、たまたまアンソロジーの事を考えていて、その話しをすれば、実際に皆さんにアンソロジーを作ってもらってやったらおもしろい。
アンソロジー(謎のギャラリー)『こわい部屋』『愛の部屋』でこの中に、今ではもう忘れられた作家なんですが、スペンサー・ホルストというアメリカの作家の作品を取りたいということで、
連絡を取りたい、ということで新潮社の編集の北村さんに掲載の許可をお願いしたいと言ったわけです。
そこでスペンサー・ホルストさんはアメリカにいますので、そのひとと連絡を取らなくちゃならない。
そうするといろいろと大変だった。北村さんが電話で話しをすることになったくだりで
「えーと、DVD…じゃなかった。…」(会場から)「KDDでしょう」というやりとりのエピソードが入っている。
【注2】北村さんには「まーた、北村先生は話を面白くして」なんて言っていましたが、これは本当に
そういうやりとりがあったんです。本人は忘れているようですが、ちゃんと録音したので残っている。
『北村薫の創作表現講義』の中にも、私が「何か質問はありますか」と言うと
学生が「暑いのでクーラーを入れてもいいですか」と言ったエピソードも入っている。
こういうものを、人によっては無駄だという人もあるけれど、私はその場のやりとり、空気感を大事にしたい。
【ここで余談ながら、「与太郎」を外国人の名前ふうに言うとどうなるか、という話で盛り上がったエピソードあり。】
【プリントを読み上げて】三好達治はこのように書いている訳ですが、ジュンクでこの話をした後に、
講談社の人から、「わたしたち」の行で「わたし」本人と一緒にいるのは現在の別の女性なのではないか、という
別の解釈を聞いた。私はこの解釈は無理だと思うけれど、人によって様々な解釈がある訳です。
ところでこの詩は寺山修司/編著の『旅の詩集』の中に選ばれていると新潮社の北村さんに教わりました。
この「山に登る」の他に朔太郎の詩は「沼沢地方」という詩が入っている。
【詩を読み上げて】このように、途中に「わたしは」とあるが、その4行後には「僕たち」となっている。
朔太郎の詩において、人称が変わるのはおかしくないとわかる。その行、その時点での真実であればいい訳です。
【春日部高校の恩師であり教員時代にも春日部高校で一緒になった、古典の堀越先生についてのエピソードあり。
国語の教え方の話で「べし」の意味の覚え方として、中田先生考案の「てめぇすぎとか」
【て:適当、めぇ:命令、す:推量、ぎ:義務、と:当然、か:可能】というフレーズの話あり。
埼玉県民でないと通じにくいが、「すぎと」というのは北村先生在住でもある埼玉県杉戸町とかけている。】
作品の解釈には人それぞれある訳ですが、俳句の場合は俳句をやっている人にしかわからない善し悪しの基準
みたいなものがあるように思いますが、俳句をやってらっしゃる中田先生、どうでしょうか。
加藤楸邨の句で「にこにこせり クリスマスケーキ買う男」というのがあり俳句の世界では
評価されているようなのですが、この良さがわかりますか?
中田:うーん、私にもちょっとよくわかりません。
北村:まぁもっとも、俳句の世界でも、ある結社で披露したらけちょんけちょんに批判された作品が、
別の結社で披露したら大変評判が良かった、なんてこともあるようですが。
小学館の『日本の古典』の中の「現代の俳句」1、2があって、俳句で有名な山本健吉が1と、2の途中まで編んだ。
【注3】その中に向井去来の「岩端(いわはな)や ここにもひとり月の客」という句について載っている。
この句は「~ここにもひとり月の猿」の方がよいのではという意見に対し、芭蕉は、猿とは何を言っているのだ、
「ここにも一人」と自分が名乗り出たと解釈しなさいと言っていると。
しかし正岡子規は猿の方がよいと芭蕉を全否定している。
これは芭蕉や子規だから説得力があるのだけれど、様々な解釈、意見があるということですね。
蕪村の句で「負けまじき 角力を寝物がたり哉」という句がある。
その解釈を中村鳴雪は、負け相撲の後に夫婦で語っているとし、
虚子は、見物人が明日の取り組みについて話しているとし、
子規は、相撲の後の相撲の小部屋の男同士の会話だとしている。
どれが正解ということもない、それぞれの味わいがある。解釈はその人の立ち位置を示す訳です。
寺山修司の『日本童謡詩集』という本があります。いかにも寺山らしいラインナップになっている。
こういうものは、どの作品がどういう形で採られているのかが面白い。
【話題は変わって、作品の舞台について】
中田:北村先生の『ひとがた流し』という作品について、これは埼玉県東部のイメージでしょうか。
というのは、その地域に鎌倉時代からある古い神社、鷲宮神社では7月にひとがた流しを行うそうですが。
北村:そのイメージではないんです。別の町での慣習をもとに書きました。
鷲宮の方は「らきすた」ていう漫画のことを聞きました。鷲宮神社が舞台になっているみたいで町興しをやっている。
中田:そうですか。作品を読む時に、これは春日部なのかなとか、自分の知る町に引きつけて読んだりするのですが
色々と解釈と広がりを見せてきますね。
ところで北村先生は作家になろうとは思っていなかったと新潮社の北村さんに聞いたのですが。
北村:作家は食えないというのがあたりまえで、書きたいものを書くには他に仕事を持っていないと無理。
リアルに【現実的に】考えると、普通は作家になりたいとは考えない。
作家を目指す初心者への有効なアドバイスは、というと「最後まで書け」だと誰かが言っていた。
中田:北村先生は初めは覆面作家でしたが、どうしてですか。
北村:担当の編集さんに、たくさん原稿の依頼が来ても断るのが大変だよと言われたので。私はそれほど
たくさん書く方ではなく、本は年に1冊出るかどうかというペースですから。それから、正体がわからないのは
面白いというのももちろんありました。
ただ、自分にしか書けないもの、編めないものをやろうと思ってずっとやっています。
【版画家・大野隆司さんの、「ラフ持ってきて」で「裸婦?」「ラフ画!」の話、
『月の砂漠をさばさばと』の話、
北村先生が運転免許取りたての頃に踏切で脱輪して周囲の人に助けてもらった話などあり。】
中田:北村先生の作品には、リアルなもの、ほんわりしたもの、さわやかなもの、色々なものが
ありますが、意識して書いているのですか。
北村:『ひとがた流し』の中に、納豆が落ちたエピソードを書いた。実話を元にしているんですが、
ある日納豆をかき混ぜていたらパックを床に落としてしまった。瞬間、最悪の事態を頭で考える訳です。
納豆のネバネバが床についてしまったらきれいにするのが大変だなとか。ところが納豆のパックは
うまいことくるりと一回転して上向きに落ちて、床に納豆がこぼれずに済んだ。
こういうのは誰かに話したくなる訳です。それが一人暮らしだと--『ひとがた流し』の中では
男性の一人暮らしの設定ですが--語る相手もいない。納豆が落ちたけど上手く上向きに落ちてラッキー、と
喜んで、これが自分の幸せなのか、と。孤独感が強調される訳です。【注4】
こういうエピソードを入れていることで、リアル感が出るのかもしれませんね。
【この後、北村先生によるプレゼントイベントあり。】
2000円もかかるイベントによくぞ、・・・ということで、北村先生がうっかりダブって買ってしまったものなどを、希望者にプレゼントするという企画をしてくださいました。
(1) 義太夫コース
義太夫のCD。店頭で見て、持っていないCDだと思って買ったが
帰宅してよく見たら既に持っているもののパッケージ違いだった。開封してしまったが未使用です。
(2)古典文学コース
佐藤春夫『病める薔薇』(?)の復刻版。これもパッケージ違いで買ってしまったとのこと。
谷崎潤一郎の序文付き。
(3)コミックコース
「このミステリーが面白い!」というマンガ雑誌3号分。マンガ「冬のオペラ」を掲載したもの。
(1)は希望者が3人だったので3人でジャンケン。
(2)は希望者5~6人と北村先生がジャンケン、一度で一人勝ちの人が決まった。
(3)は希望者10人くらい?で北村先生とジャンケン、勝った4人で決勝ジャンケン。
【最後に、サイン会開催。宛名なし。北村先生が、サインと共に猫のイラストも描いて下さいました。】
注1:【『昭和文学全集』第33巻 評論随想集Ⅰ p.9~10 小学館 1989年】のコピーで、
内容は萩原朔太郎の「山に登る」という詩について三好達治が書いた評論。
詩の2行目には「わたしたちは寝ころんでゐた」とあるが4行後と最終行には「おれは~」とある。
この人称の違いについて三好達治は、山に登ったのは「わたしたち」数人で、「おれ」はそこから
ひとりこっそり抜け出したのだろうか、いやそんな風には解しがたい、という旨を書いている。
注2:『自分だけの一冊』(北村薫/著)のp.101~104あたりのこと。
注3:と言っていたように聞きとってメモしたのですが、検索してもそれらしき本が見つけられなかったので
書名などどこか聞き間違いしたのかもしれません。すみません。
注4:このエピソードは『ひとがた流し』単行本p.227にあり。
※なお、この聴講メモは、トークショウを聞きながら書いたメモと記憶をもとに書いています。
録音記録を文章に起こしたものではありません。
大分省略していますし、発言の言葉と異なる場合も多々あると思います。
あくまで、おおよその雰囲気を知るというゆるい感じで読んでくださいませ。
また、文面について、何か不都合や重大な事実誤認がある場合は、そもそも先生方の発言と文章が異なる可能性がありますので、主催の大学側にご連絡される前に、まず当方にご連絡いただければと思います。
それ以外に、「ワタシは正確に知りたいのよう!」という方は、ぜひ次の講演やトークショウにご参加いただきたく。。あんまり正確にテープ起こしとかやっちゃうと、諸々権利面で問題出そうですから。
編集協力:ましもさま
まことにありがとうございました。ぷいぷい。